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最高裁判所第三小法廷 昭和54年(オ)354号 判決

上告人

樋口正道

右訴訟代理人

佐々木鉄也

大友秀夫

被上告人

矢野眞弘

右訴訟代理人

山岡義明

主文

原判決中上告人敗訴部分を破棄する。

前項の部分につき本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人佐々木鉄也、同大友秀夫の上告理由について

原審は、(1) 被上告人は、昭和四七年三月一一日、本件交通事故によつて右手、右臀部に加療五日間を要する挫傷を受け、昭和五〇年一月一〇日までの約二年一〇か月にわたる通院治療の結果、身体障害等級一四級に該当する腰部挫傷後遺症を残して症状が固定し、右下肢に局部神経症状があるものの、上、下肢の機能障害及び運動障害はないとの診断を受けたこと、(2) 右後遺症は多分に心因性のものであると考えられること、(3) 被上告人は、通産省工業技術院繊維高分子材料研究所に技官として勤務し、本件事故前はかなり力を要するプラスチック成型加工業務に従事していたが、本件事故後に腰部痛及び下肢のしびれ感があつて従前の仕事がやりづらいため、坐つたままでできる測定解析業務に従事するようになつたこと、(4) しかし、本件事故後も給与面については格別不利益な取扱は受けていないこと、などの事実関係を確定したうえ、事故による労働能力の減少を理由とする損害を認定するにあたつては、事故によつて生じた労働能力喪失そのものを損害と観念すべきものであり、被害者に労働能力の一部喪失の事実が認められる以上、たとえ収入に格別の減少がみられないとしても、その職業の種類、後遺症の部位程度等を総合的に勘案してその損害額を評価算定するのが相当であるとの見解に基づいて、右事実関係及び労働省労働基準局長通牒(昭和三二年七月二日付基発五五一号)による労働能力喪失率表を参酌のうえ、被上告人は、本件交通事故に基づく前記後遺症のため労働能力の二パーセントを喪失したものであり、その喪失期間は右事故後七年間と認めるのが相当であるとして、被上告人の年収を基準とする右割合及び期間による三四万一二一六円の財産上の損害を認定している。

判旨しかしながら、かりに交通事故の被害者が事故に起因する後遺症のために身体的機能の一部を喪失したこと自体を損害と観念することができるとしても、その後遺症の程度が比較的軽微であつて、しかも被害者が従事する職業の性質からみて現在又は将来における収入の減少も認められないという場合においては、特段の事情のない限り、労働能力の一部喪失を理由とする財産上の損害を認める余地はないというべきである。

ところで、被上告人は、研究所に勤務する技官であり、その後遺症は身体障害等級一四級程度のものであつて右下肢に局部神経症状を伴うものの、機能障害・運動障害はなく、事故後においても給与面で格別不利益な取扱も受けていないというのであるから、現状において財産上特段の不利益を蒙つているものとは認め難いというべきであり、それにもかかわらずなお後遺症に起因する労働能力低下に基づく財産上の損害があるというためには、たとえば、事故の前後を通じて収入に変更がないことが本人において労働能力低下による収入の減少を回復すべく特別の努力をしているなど事故以外の要因に基づくものであつて、かかる要因がなければ収入の減少を来たしているものと認められる場合とか、労働能力喪失の程度が軽微であつても、本人が現に従事し又は将来従事すべき職業の性質に照らし、特に昇給、昇任、転職等に際して不利益な取扱を受けるおそれがあるものと認められる場合など、後遺症が被害者にもたらす経済的不利益を肯認するに足りる特段の事情の存在を必要とするというべきである。原審が以上の点について何ら審理を遂げることなく、右後遺症の存在のみを理由にこれによる財産上の損害を認めている点で、原判決には損害認定に関する法令の解釈、適用の誤り、ひいては審理不尽、理由不備の違法があるといわざるをえず、論旨は理由がある。そして、被上告人の本訴請求は、同一の交通事故によつて生じた身体障害に基づく損害の賠償を請求するものであつて、各費目別の損害額は相互に密接に関連し、上告人の本件上告も右の趣旨で原判決全部の破棄を求めるものと解しえないではないから、原判決中、上告人敗訴部分は、結局、その全部の破棄を免れない。そして、叙上の点を含め、さらに本件損害賠償額について審理を尽くす必要があるから、右破棄部分につき本件を原審に差し戻すのが相当である。

よつて、民訴法四〇七条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(横井大三 環昌一 伊藤正己 寺田治郎)

上告代理人佐々木鉄也、同大友秀夫の上告理由

原判決には判決に影響を及ぼすべきこと明らかな次のような法令の違背、審理不尽の違法がある。

一、原審判決は労働能力喪失による損害を認め、その理由として収入の減少が生じていない場合でも抽象的な労働能力の減少があればよい旨述べている。本件にあつては原判決も認めるように被上告人には本件事故後も全く収入の減少はなく、近い将来に収入減少の生じる蓋然性も全く認められない。このような場合にまで損害の発生を認めることは民法第七〇九条の趣旨を逸脱するものである。すなわち損害賠償制度は被害者に生じた現実の損害を填補することを目的とする(貴庁昭和四二年一一月一〇日第二小法廷判決)ものであり、本件のように全く収入減少なく、その可能性すらないケースにまで逸失利益を認めることは妥当ではなく、この点において原審判決は判決に影響を及ぼす法令違背があるというべきである。

二、仮りに、労働能力の減少のみで損害ありと考えるとしても、一般的抽象的に労働能力の喪失を考えるべきでなく、当該被害者の具体的職務内容、後遺症の内容等よりみて、後遺症が収入の減少につながる蓋然性が高い場合にのみ逸失利益を認めるべきである。しかるに原審はこの点につき充分な判断をしておらず審理不尽による判決理由に不備があり、判決に影響を及ぼすこと明らかである。仮りに前二項の理由が認められないとしても、原審判決は次のような経験則違反がある。すなわち原審判決は被上告人の労働能力喪失を二パーセント、継続期間を七年間と認定している。しかしながら、本件のように後遺症が自賠責保険において第一四級の「局部に神経症状を残すもの」の場合は通常その継続期間が一年ないし二年と考えられている。特別の事情の認められない本件にあつても右一年ないし二年間の継続期間と考えるべきであり、この点において原審判決は判決に影響を及ぼす経験則違反があるというべきである。

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